1989年11月、ベルリンの壁が事実上崩壊しました。
ここから、急激に、まさに夢のように、東欧諸国がすさまじい勢いで民主化の激流に流されはじめました。28年ぶりに、東独の人たちが自由に西側へ行き来できるようになりました。
歴史を知る誰もが「信じられない」想いを胸に・・・・・。
翌年、1990年3月に、モスクワ、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)(ソ連)、ワルシャワ(ポーランド)、プラハ(チェコスロバキア)、ブタペスト(ハンガリー)、ソフィア(ブルガリア)、東ベルリン(東独)、北京(中国)を、約1ヶ月かけて出張する機会にめぐまれました。
3年後の、1993年11月には、モスクワ(ソ連)、プラハ(チェコ)、ワルシャワ(ポーランド)を、同じく約1ヶ月の日程で出張しました。
外務省の特命仕事で旧共産圏の在外公館(現地の日本大使館など)のセキュリティシステムの仕事です。
最初に行った1990年の時は、多少の緊張感がありました。
スイス航空で、成田から約10時間の空の旅のあと、モスクワに無事到着しました。満席だった乗客のうち、3人がここで降りました。この飛行機はこの後スイスへ向かうのです。降りた3人は、先輩の技術者と私、そしてソ連人らしい恰幅のいいおばさんでした。
入国審査では、何度かモスクワに来ている先輩の技術者は、すんなりと通過させてもらえましたが、はじめてモスクワに入る私は、なかなか通してもらえません。
軍服を着たKGBの職員が、無言のまま、私の外交パスポートと私の顔を、何度も何度も見比べます。ちょっと長すぎるなあと不安を覚えるほどでした。向こうのロビーでは、迎えに来てくれていた外務省の職員と先輩の技術者が笑顔で挨拶を交わしているのが見えました。
そして、しばらく無言の状態が続いた後、いかにも「われはKGBなり」というスキのない顔をしたその男が、ぽつりと何か言いました。
「・・・・・・・」何を言ったのか聞き取れなくて、私が怪訝な顔をすると、再度、
「ナンノモクテキデキタ」
と、今度は、はっきりと、きれいな日本語で言いました。
日本語には多少自信のある私は、「いかにもKGB」の言ったことがやっと理解できました。しかし、まさか、日本語で質問されるとは思ってもいません。
「信じられない」想いを胸に、私は、日本語で、
「そこに書いてある」と、パスポートを指差しました。
モスクワでの最初の出来事が、以上のようなことでした。
空港で降りた3人のうちのひとり、ソ連人らしい恰幅のいいおばさんは、日本から、ずっと私たちのことを見張っていたのかもしれないねと、後で外務省の人に言われました。
そうだとしたら、それはいつから・・・、あるいは、どこから・・・、飛行機の中では何処にいたの・・・・。
・・・「信じられない」想いを胸に、あのスキのないいかにも男と、スキだらけの自分をついつい比べてしまったモスクワでの初日の夜でした。
(2009/06/10)
(Copyright ©Hiroyuki Takao)